2014年05月31日

人生講座(8) デディケーション

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また学生のころの話をしますが、若いので何かが起こるとすぐ激高したり、ガックリしたり、まだ心が落ち着かないのです。時々、学生が「みんなと一緒にやるのはイヤだ!」とだだをこねることがあります。特に工学系の学生は口が重く、人とうまくやっていくことができません。

そんなとき、私は学生に次のように言うことがあります。
私 「そうだな。人とのつきあいってややこしいから、人のいない山の奥でも行ったらどうだ。人もいないから気楽だぞ」
学生「それはそうですけれど・・・」
私 「でも、ずっと一人じゃ、少し寂しいだろうね」
学生「ええ、友達も家族もいないのでは、ちょっと・・・」
私 「それに病気をしても救急車は来ないし、歳を取ってもそのままのたれ死にだから、結構辛いものがあるね」

学生は考え込み「そうだな。やはり一人じゃダメかも知れない」と思い直すのです。「正しければ3年」の時も同じですが、学生はこんな経験をしながら、対人関係でも我慢が出来るようになり、少しずつ成長していくものです。

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私の研究生(工学部では大学4年生と大学院生)は「耳たこ」になるぐらい「デディケーション」という単語を聞かされます。日本語に訳すと「献身」と訳されますが、すこしニュアンスが違うので今のところ、英語のまま使っています。

人間は何かをするときに「お金をもらう」とか「報酬がある」ということが前提になっていることがあります。でも私は「お金をもらう」とか「報酬がある」と言うことをあまり問題にせずに、行動します。その理由は、学生との対話の中にあるように、「自分が生きているということはすでに報酬をいただいている」からです。

●一人でいると寂しい・・・ということは周囲に人がいるから自分は楽しく生きているわけで、その恩を返さなければなりません。
●病気になったら救急車が来る・・・ということは、周囲に人がいるから自分が病気になっても助かるし、老いてものたれ死にしなくてよいのです。
●食堂にいったらご飯を食べることができる・・・自分ではない誰かが作物を育て漁をし、料理までしてくれるから。
●トイレが綺麗だった・・・夏休みでしばらく掃除をしないトイレは汚くて入ることもできません。トイレを使う人が一人一人、乱暴な使い方をしなくてもトイレを掃除してくれる人がいないと自分は快適にトイレを使うこともできないのです。

ということは、「自分はなにもしないのに、すでに多くの人からいろいろなことをしてもらっている」ということですから、まずはその分を返さなければなりません。たとえば、1日1時間は「寂しさを救ってもらっている分」働く、1日1時間は「病気になったり老後になったりしたら助けてもらう分」働く、1日1時間は「ご飯を食べさせてくれるから」、1日1時間は「トイレを綺麗に使えるから」、1日1時間は「道路を歩けるから」

・・・とすると、1日4時間ぐらいは「無償で働く」ということをしないと、回りの多くの人が自分にしてくれていることの恩を返すことができません。

そこで、「頼まれたら無償でする」、「自分が辛いときに頼まれても、二つ返事でする」、「自分と関係ないことでも気持ちよくする」ということが第一と考えるようになりました。それからしばらくして私は「いざというときの武田」と呼ばれるようになったのです。

たとえば一週間ぐらい前に大きなイベントの委員長などを頼んでくることがありました。「ああ、誰かに断られたか、都合が悪くなったのだな」と思うのですが、すぐ「はい」と引きうけます。

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もう一つ、デディケーションにはなりませんが、”give and take”(ギブ・アンド・テイク)というのもあります。英語の順序がgiveから始まっている理由をハッキリは知らないのですが、私は「まずギブ(与える)」、そして「テイク(もらう)」という順序が良いとも学生に言います。普段から協力して上げていれば、いつの日かそれが帰ってくるものだというおとです。

でも主力はデディケーションなので、テイクを期待せずにギブするということです。夕刻、私がある学生を呼んで、これを明日までにやってくれないか?と言います。学生は自分に余り関係がないので、最初はブスッとした顔をしますが、そのうち、「はい」と言うようになります。そうなれば私は学問的な指導だけをすれば学生は自分で伸びるようになります。

自分が成長し、人が幸せになるというのにもっとも良いのが「無償の行為(デディケーション)」、次に「ギブ・アンド・テイク」であることがわかります。「情けは人のためならず」という諺は、「情けがそれを受ける人のためにならない」という意味ではなく、人に情けをかけることはやがて自分に返ってくるという意味ですから、これもデディケーションでしょう。

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さてデディケーションというのを何とか日本語でと思うのですが、「人に対する献身」、「ものに忠実に専念する」というニュアンスの単語が見つからず、今もってデディケーションという英語を使っています。私は英語が専門ではないのですが、「バスケットボールにデディケーションする」という文章は成立するように思うのです(dedicate to)。この場合はやや「夢中になる」、「入れ込む」、「こだわる」というような意味を含んでいるように思うからです。

人生はデディケーションである。デディケーションをしていて飢え死ぬことはないし、万が一、飢え死んでも後悔はしないと思ってきた毎日でした。

(平成24年9月11日)
posted by 武田邦彦 at 02:58| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

人生講座(7) 正しければ3年で、正しさもいい加減なら天寿を

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この人生講座も最初は「お金」の話から入り、「健康」へと進みました。両方ともまだお話をすることはあるのですが、次に「心の問題」に入っていきたいと思います。

学生の頃、それは私も同じだったのですが、正義感にあふれ、「自分の考えが正しい」と思うものです。若いというのはそう言うことですから、それはそれで良いのですが、時に激高して、
「先生っ!なんで正しいことが通らないのですかっ!」
と迫ってくることがあります。

そんなとき、私は「そう、君が言うことが正しいの?」と聞きます。学生は勢いこんで「正しいですっ! 先生も分からないのですかっ!」とあくまでも激しい。そこで私は次のように言います。

私 「君が正しいのなら、君は3年で絞首刑になるだろうな」
学生「???」
私 「イエス・キリストがお話になったことは2000年も多くの人の心を打っている。だから私や君が言っていることより正しかったのだろうね。イエス・キリストは27才で話を始め、3年後に磔にあって命を落としている。」
学生「それがなにかボクと関係があるんでしか?」
私 「君の言っていることが正しければ、3年で死刑になるだろうね。社会というのは本当に正しいことは通らないのだよ。ややいい加減なことは受け入れられる。無事に一生を終えようと思ったら正しいことは危険なんだよ。」

このことがすぐ分かる学生と、時間がかかる人の違いはあるけれど、こんな事がきっかけとなって学生は成長していく。理想を捨ててはいけないが、その限界と社会を知らないと希望は達成されない。

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歴史的に見て、イエス・キリストを3年で磔にしたのは人類史上、最大の損失だっただろう。私には彼が神様か人間かは分からないが、この世に出現した人類の内で、1,2を争う人格者であり、最大の頭脳を持った人だったことは間違いない。

2000年も経ったいま、信者でもない私が聖書を読み、その素晴らしい洞察力、人格、行動力に唖然とするしかないのである。同じように深い感動を覚えるのは、わずかに伝え聞くお釈迦様の言動やソクラテス語録だが、お釈迦様の直伝が少ないこともあって、聖書はひときわ優れているように感じられる。

今から30年ほど前のことだったが、ある敬虔なキリスト教徒の方から芭蕉の句の入った挨拶状をいただいた。その句はとても深淵で素晴らしいものだったが、ある時にその人に会う機会に恵まれたので、私は、
「芭蕉の句は確かに素晴らしいと思いましたが、それなら聖書の一部の方がもっと素晴らしいのに、なんで芭蕉の句が必要なのですか?」
とお聞きした。若かったので礼儀を知らなかったからできた質問だろう。

私の質問をそばで聞いておられたその方の奥さんも敬虔なキリスト教徒だったらしく、私の質問にいたく感心されたと後でお聞きした。私には聖書以外の書物で聖書より感銘を与えてくれるものはない。

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私も時にバッシングされる。ゆえない非難、言ってもいないのにバッシング、子供の健康を心配して「セシウムで汚染されたものは子供に食べさせないでくれ」というと全国の新聞で「不見識」と書かれる。

凡人である私はそんなときにやや落ち込まないでもない。でもそんなとき、私はイエス・キリストを思い出す。彼と私ではそれこそ天と地ほどの違いがあるのだが、それでも「あの偉い人でも3年で磔にあった。私が被害を受けてもそんなのは小さいことだ。私もまだたいした事はしていないのだな」と思うと、心の負担は無くなっていく。

イエス・キリストの人生を思えば、多くのことは楽になる。すべての人の罪を背負ったと多くの人が感謝している理由も分かる。

この世に辛い思いをしている人が多いだろう。ゆえなく他人から非難されたり、身に覚えのないことで悔しい思いをすることもあるだろう。でも、世の中というものは正しければ正しいほど罰せられる、人間という生物はなにか欠陥を持っていて、その歪みをある特定の人にかぶせるクセがあるように思う。

人間にとって正しい人生を送ると正々堂々として楽だ。悪いこと、他人をおとしめることをすると後ろめたい。でも、まだ人間の集団は一人が正々堂々と生きることを許さないのだろう。

私が話をした学生もやがて大人になり、正義を振りかざせば負担は大きいだろうが、それでもその人の正義を貫いてくれるように願う。それが本当に正義なら、イエス・キリストの受難と同じようになるのだが、それは人間にとって誇りになり、やがて人間の集団も正しいことを受け入れるようになるだろう。

(平成24年9月9日)
posted by 武田邦彦 at 02:57| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

人生講座(6) 治療とはなにか?医師とは?

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タバコ、コレステロール、血圧について整理をしてきましたが、

有名なアメリカの医師や高名な日本の医師で次のように言っている人もおられます。
1)可能ならすべての薬を中止せよ、
2)老人のほとんどは服用している薬を中止すると体調が良くなる、
と言っています。

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また、3万人を超える自殺者に対して2000人を対象に生活習慣を調べた結果によると、喫煙者は一人もいなかったということです。確かに、左手でタバコ、右手におちょこという人が人生に悩んで自殺するということもないように思います。

実は、タバコの成分(おそらくニコチン)は頭の活動を司るドーパミン、セロトニンのような活性物質と反応し、その量を調整するのではないかと言われています。頭が混乱したとき、なにかの拍子で思い込んだとき、タバコで一服してスッキリさせるということはごく常識的なことです。

「禁煙活動は人を自殺に追い込んだ」という表現は少し言い過ぎな感じはしますが、タバコの効用や、自殺者の生活習慣について、もう少し真剣に取り組むべきと思います。

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電車に飛び込んで自殺する人が後を絶ちませんが、45才以上の男性で飛び込み自殺をした人を調べたところ、ほぼ全員がコレステロールの降下剤を服用していたという調査もあります。

コレステロールは性ホルモンの原料でもあり、体の調子を整えるために重要な物質です。たしかに過剰のコレステロールは動脈硬化などを起こしますが、年をとって自然に硬化する動脈をコレステロールの降下剤で防ぐことが本当にできるのか、それは全身の健康にどのような影響があるのか、研究はそれほど進んでいません。

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このブログの「専門家」の議論で何回か取り上げたのですが、医師が「治療」から「予防」にその業務範囲を広げたとき、充分な議論がなかったと私は考えてきました。

「治療」は「故障した車を直す」ということですから、部分的であり、普通は「旧に復する」のが目的です。ですから医師は全身の健康も考えますが、第一に傷や病気を治療することを第一とします。

しかし、「今、健康な人で将来、病気になるかも知れない」という人を「予防」するのは、まったく見方が違います。まず、「日本人の人生はどのようにあるべきか」についての社会的合意が必要です。(毎日の楽しさ)×(生涯日数)が最大になればよいのか、それとも(生涯日数)だけが問題なのかもハッキリしていません。さらには、(毎日の楽しさ)とはどういう状態なのかも議論は不十分です。

たとえば、タバコを吸った場合、仮に1000人に1人が(タバコを吸ったことで余計に)肺がんになりやすいとします。この時に、この1000人がタバコを吸う楽しみを奪われるということを考えるのか、肺がんになった一人の人だけに注目するのか、それも考えなければなりません。

タバコというと「俺には関係がない」という人もいるでしょう。これを「お酒」とするとどうでしょうか? お酒の好きな人は「お酒を飲めば1000人に一人の肝臓病、飲まなければ1000人に1人の中にも入らない」と聞いたら、おそらく「そのぐらいなら、お酒を選ぶ」という人が多いと思います。

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医師が「治療」について絶対の権限を持っていることはこの社会で必要なことです。でも「予防」について絶対の権限を持つにはプロとして必要な「普遍的原理」の必須要件が満たされていないと私は考えます。

お酒、タバコ、コーヒー、コレステロール、血圧、食塩、ケーキなど日常生活で私たちが必要とするものを社会的に、かつ強制的に制限するというのはきわめて危険です。多くは「少ない方が良い」というのではなく「適正量がある」とか、「コントロールを失う病気になったら治療する」というものではないかと思うからです。

タバコのことをきっかけに多くのお医者さんに厳しい議論を投げかけると、必ずしも「日本人の人生」について明確な答えは返ってきません。むしろ、環境問題でよく見られるように「俺の人生は正しいから、それに基づいて指導する」という考えも見られます。

「治療」ではなく「予防」の時に、医師や社会がどのぐらい個人の行動を制限することができるのか、「迷惑をかける」というのはどの範囲を言うのか、もう少し論理的で学問的な議論を求めたいと思います。

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ところで私のような「教師」というのも専門職ですが、大学の講義を見ていると、「大学の先生は普遍的な事実を学生に教えるのであり、自分だけの考えを学生に教えてはいけない」というプロの原理を良く理解されていない先生が多いように思います。

かつては欧米で書かれた確立した教科書に基づいていたのですが、学問が多様化し、社会との距離が縮まるとともに、実にいい加減なことを教えている先生が多いのですが、このようなことも「御用学者」を生んだ一つの原因になりました。

「いい加減で良い」というのは、医学でも科学でも同じく注意を要します。

(平成24年9月6日)
posted by 武田邦彦 at 02:57| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

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